②『天皇の島、ペリリュー島に行ってみた前編』


人類は戦争に休止符を打たなければならない。そうでなければ、戦争が人類に休止符を打つことになろう
声:JFケネディ

サンキュウボウヤです。

ペリリュー島の戦跡ツアーに行ってみましたよ


コロールの港からスピードボートで約1時間15分 (通常の船だと2時間)
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ロックアイランドツアーカンパニーさんのツアーに参加したのですが
天皇陛下が慰霊に来てから参加される方が増えたそうです。

出発して、環礁内で見る景色は、戦争の跡を見に行くとは思えない、美しい景色
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こんなキレイな海と空が70年前は戦場だったなんて・・・
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日米合わせて1万3000人も戦死したところに行くことを考えると
乗り物酔いしない私も、なんだか気分が良くない感じ・・・
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ペリリュー島に到着
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住民がコロールとペリリュー島を往復するのに使う船は日本からの援助のようです。

ペリリュー島では第14師団麾下の茨城県の水戸歩兵第二連隊が戦いました。
現在、茨城県と交流があり、援助で導入した救急車や消防車などがありました。

上陸後は、マイクロバスで移動します。


移動を開始してすぐ、トーチカがあります。
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第一次世界大戦では、戦勝国だった日本は、
西太平洋のドイツ植民地の島々を国連からの委任統治領として
支配する事になります。

ドイツ統治時代につくられた
となりのガドブス島まで通っていた橋の跡
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アメリカ軍の空襲により破壊され、そのまま残されています。

現在のペリリュー島は北部にしか集落がありません。
それは、17万発という砲弾が降り注がれ地形が変わってしまい、
また不発弾も多くあった事から
戦後、疎開していた島民がすぐに戻れなかったからだそうです。


この橋げたの近くに日本軍の掘った洞窟陣地があります。

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戦後、この千人洞窟を名付けられた、とても長い洞窟。

ツルハシだけで、こんなに掘ったなんて凄いですよね


洞窟の中には、いたるところに瓶が落ちていて
火炎瓶として使っていたそうです。
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上の写真の真ん中にあるのは、すずりです。


千人洞窟の見学で衝撃的だったのは
洞窟内の病院後でした。

病院といっても、薬や手当てする道具の補給がない状態
ましてや、こんな暗い洞窟の中で・・・
想像を絶する状態だったろうなと

これは排水溝の跡だそうです。
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奥には卒塔婆がありました。
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この洞窟にはもっと先があるらしく、そこに6人が終戦まで立て籠もっていたそうです。



洞窟の入口が黒くなっています。
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アメリカ軍の火炎放射器の跡だそうです。

歩兵の取り扱う火炎放射器では、反撃に合う危険があるため
火炎放射戦車も使われていたそうで、射程は140mもあったそうです。


千人洞窟の近くに
割と大き目なトーチカの跡がありました。

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下側を草木で覆って迷彩掛けたりすれば、なかなか見つけにく感じですね。

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この小さい穴から機関銃を掃射します。


ペリリューを含めパラオには、重要な防衛拠点として、兵器、軍需品、築城資材が優先的に送り込まれて
いたそうで、トーチカ・洞窟陣地構築の他に、糧食の備蓄もされた事が、
ペリリュー島守備隊の奮闘につながったそうです。





次は、慰霊碑がある墓地へ行きました。

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島のカタチが変わるほどの戦闘が起きた原因を作ってしまったのに
現地の方々の墓地と一緒の敷地に慰霊碑があることに、感謝しないといけませんね。


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ペリリュー島で亡くなった方々に線香をあげる事が出来ました。
線香の準備をしてくれた、ガイドのマサトさん
元第一空挺師団にいた方だそうです。
陸上自衛隊で過酷な戦闘を想定し訓練する部隊にいた方の説明で凄く説得力があります。


真ん中の三角になっているのが”みたま”で、納骨棚があるそうです。
1万名以上が戦死し、、まだ2600体の不明者の遺骨が見つかっていません。

ペリリュー島の戦いを指揮した中川大佐の遺骨もまだペリリューにあるそうで
中川大佐の婦人は、まだ見つかっていない方が多くいるのに、先に日本に帰すわけにはいかないと
受け取りを拒否したそうです。


みたまの左側にある石は吉田茂元首相の名前が入っているそうです。



ペリリュー島戦車隊の墓
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順番が変わってしまうのですが、
先に戦車隊を紹介します。


弾薬庫跡、海軍司令部跡と見学した後
飛行場近くで戦車の残骸があります。

こちらは、日本陸軍九五式軽戦車の残骸です。


いま見ると、ラピュタに出てくる動かないロボット兵のような雰囲気です。

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腐食し茶色くなったボディと違って灰色のところは弾倉でしょうか?
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弾薬庫跡を活用し博物館で、展示してあった戦車隊隊員の写真

なんと、青森県出身者、しかも七戸・十和田・六戸の方です。
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青森県出身者が乗る戦車に『むつ』と名がつけられていたそうです。

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日本兵が多く死んだと考えても、あまり実感はありませんでしたが
青森県のしかも七戸・十和田・六戸出身の方が激戦で亡くなったと知ると
他人事じゃない感がしてきました。


見学者も皆さんモノ珍しそうに戦車を見ているようでしたが
ペリリュー島戦車隊は、米軍の対戦車兵器の猛射を受け大損害を受けました。

戦車17両の他、歩兵600名が上陸間もない米軍のいる飛行場東端に突入。
戦車に歩兵を跨乗させ、米軍に攻撃を加えたといいます。

この残骸の周りで、多くの日本兵が壮絶な死を遂げたのでしょう。

戦車隊の平均年齢は24歳と若い方が多かったようです。


こちらは、沖縄県出身者を慰霊する『沖縄の塔』
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制海権も制空権もない中
パラオ本島から宮崎15連隊がペリリュー島へ逆上陸を実施
アメリカ軍の攻撃で約1000名のうち約400名しか上陸出来なかった。


そんな中、これ以上の増援は必要ないことをパラオ本島に伝えなければならなかったが
パラオ本島との通信手段を失っていたため、『海中伝令』といって、人間が泳いで伝えることになった。

その距離は、約60㎞という距離
途中の島で休憩は出来るけれども、かなり過酷。

戦前からパラオに入植していて、泳ぎが達者かつパラオの地理の分かる沖縄県糸満市出身者が
この海中伝令として多く選ばれた

奈良少尉以下計17名のうち、パラオ本島に到着できたのは4名だったそうです。



ちょっと、長くなったので、前編はここまで、
次回後編をお楽しみに


①―解説―

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