『解説 ペリリュー島を訪れる前に』   


この悲劇が二度と繰り返されないことを願って

サンキュウボウヤです。


新婚旅行で、ペリリュー島に慰霊に行きたいと言ったら、妻に一度却下されたのですが
綺麗な海があるところだと説明したら、許可されました。

っという事で、日米の精鋭が激突し、たくさんの死傷者をだしたペリリュー島へ行くことが出来ました。


最初にペリリュー島での戦いを簡単に説明します。

1941年12月8日未明
日本海軍による真珠湾攻撃で始まった日米戦争。
(そのまえに日中戦争で、米国が中国を支援してた時点で戦争してたとも思えますが)

米国からの石油禁輸に対し、東南アジアのオランダ植民地を侵略し石油資源を手に入れようと
始めた戦いで、数か月で、フィリピン、東南アジアを占領。
パプアニューギニア・ソロモン諸島まで勢力を広めていきました。


日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊と決戦するために兵力を蓄えましたが
補給路を維持するという概念がなく遠くまで伸びた補給線を維持することが出来ませんでした。

そして、ガダルカナル島やパプアニューギニアを巡る戦いで、
多くの航空機や艦船を損失してしまった日本海軍は
決戦場としていた、マーシャル諸島のタラワ島、マキン島にアメリカ軍が現れても
十分な戦力を出すことは出来ず、玉砕を続けます。


<太平洋の島々を巡る戦い・期間と死傷者数>

ペリリュー島解説

ペリリュー島がなぜ激戦だったかというと。
上の図を見てもらうと分かる通り、兵力の割に長期間に渡って戦いが続けられた事にありました。

隣の島のアンガウル島もサイパン島やグアム島よりも長い日数戦いを続けています。


先のサイパン、グアムの戦いで日本海軍は壊滅して、艦船や航空機の支援を受けることがありません。
増援もないし、撤退も出来ない、そんな中、なぜ長期間に渡って日本軍は戦う事が出来たのでしょうか?


陣地構築を指揮を取った村井権治郎少将
DSCF2526.jpg

日本陸軍では、島の防衛にあたり洞窟陣地を構築し
上陸してくるアメリカ軍を島の中へ引き込んで戦う事を考えていました。

タラワ・クエゼリンでは陣地構築の余裕はなく、サイパン島・グアム島では
上陸地点に全力で火力を投入する水際で戦う構えを取ったために、艦船や航空機で
陣地や兵器を破壊されてしまい、すぐに玉砕してしまいました。

村井少将は、陣地構築のプロという事で、陸軍の方針どおりに洞窟陣地を作る事で
激しい艦船からの砲撃や航空機の爆撃に耐え兵力を温存する事が出来ました。


そして、バンザイ突撃のイメージが強い日本軍ですが
自殺的な突撃による玉砕を禁止し、持久を徹底されていたのも
戦いが長期間に渡った要因と言われています。





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