南極観測船 『しらせ』を見てきたよ

初心を貫くには、

普通の人の二倍も三倍も、

頑張らなければならぬ。 ~南極探検家 白瀬矗陸軍中尉~


酒保
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近くにいた乗組員さんに聞いてみた

私『すいません、聞きたいことがあるんですけど』

乗組員『あ!南極までの行程ですか?』

私『いえ、あの~ あそこに ”さけほ”ってあるけど、お酒売ってるんですか?』

乗組員『”しゅほ”ですね。でもお酒は売ってないですよ』

私『南極まで行くのに禁酒って辛いですね』

乗組員『南極に上陸したら飲めます』


ほぉ
酒好きには、大変な仕事ですなぁ


前の初代「しらせ」は、こんなに傾いたことあるみたいです。
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こんなに傾いて戻れるなんて、沈黙の艦隊の海江田艦長もびっくりですね。


艦橋内を見てみた。

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セコムしてますか? (声:長嶋


昔の観光バスみたいな照明のカバー
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こんなワイパーで極寒の南極でちゃんとふけるのかな?
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あと、どうやってワイパーゴム交換するんだろ?


落書きコーナー
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零式艦上戦闘機の52型ですね。 わかります。



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②『天皇の島、ペリリュー島に行ってみた前編』


人類は戦争に休止符を打たなければならない。そうでなければ、戦争が人類に休止符を打つことになろう
声:JFケネディ

サンキュウボウヤです。

ペリリュー島の戦跡ツアーに行ってみましたよ


コロールの港からスピードボートで約1時間15分 (通常の船だと2時間)
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ロックアイランドツアーカンパニーさんのツアーに参加したのですが
天皇陛下が慰霊に来てから参加される方が増えたそうです。

出発して、環礁内で見る景色は、戦争の跡を見に行くとは思えない、美しい景色
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こんなキレイな海と空が70年前は戦場だったなんて・・・
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日米合わせて1万3000人も戦死したところに行くことを考えると
乗り物酔いしない私も、なんだか気分が良くない感じ・・・
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ペリリュー島に到着
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住民がコロールとペリリュー島を往復するのに使う船は日本からの援助のようです。

ペリリュー島では第14師団麾下の茨城県の水戸歩兵第二連隊が戦いました。
現在、茨城県と交流があり、援助で導入した救急車や消防車などがありました。

上陸後は、マイクロバスで移動します。


移動を開始してすぐ、トーチカがあります。
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第一次世界大戦では、戦勝国だった日本は、
西太平洋のドイツ植民地の島々を国連からの委任統治領として
支配する事になります。

ドイツ統治時代につくられた
となりのガドブス島まで通っていた橋の跡
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アメリカ軍の空襲により破壊され、そのまま残されています。

現在のペリリュー島は北部にしか集落がありません。
それは、17万発という砲弾が降り注がれ地形が変わってしまい、
また不発弾も多くあった事から
戦後、疎開していた島民がすぐに戻れなかったからだそうです。


この橋げたの近くに日本軍の掘った洞窟陣地があります。

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戦後、この千人洞窟を名付けられた、とても長い洞窟。

ツルハシだけで、こんなに掘ったなんて凄いですよね


洞窟の中には、いたるところに瓶が落ちていて
火炎瓶として使っていたそうです。
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上の写真の真ん中にあるのは、すずりです。


千人洞窟の見学で衝撃的だったのは
洞窟内の病院後でした。

病院といっても、薬や手当てする道具の補給がない状態
ましてや、こんな暗い洞窟の中で・・・
想像を絶する状態だったろうなと

これは排水溝の跡だそうです。
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奥には卒塔婆がありました。
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この洞窟にはもっと先があるらしく、そこに6人が終戦まで立て籠もっていたそうです。



洞窟の入口が黒くなっています。
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アメリカ軍の火炎放射器の跡だそうです。

歩兵の取り扱う火炎放射器では、反撃に合う危険があるため
火炎放射戦車も使われていたそうで、射程は140mもあったそうです。


千人洞窟の近くに
割と大き目なトーチカの跡がありました。

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下側を草木で覆って迷彩掛けたりすれば、なかなか見つけにく感じですね。

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この小さい穴から機関銃を掃射します。


ペリリューを含めパラオには、重要な防衛拠点として、兵器、軍需品、築城資材が優先的に送り込まれて
いたそうで、トーチカ・洞窟陣地構築の他に、糧食の備蓄もされた事が、
ペリリュー島守備隊の奮闘につながったそうです。





次は、慰霊碑がある墓地へ行きました。

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島のカタチが変わるほどの戦闘が起きた原因を作ってしまったのに
現地の方々の墓地と一緒の敷地に慰霊碑があることに、感謝しないといけませんね。


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ペリリュー島で亡くなった方々に線香をあげる事が出来ました。
線香の準備をしてくれた、ガイドのマサトさん
元第一空挺師団にいた方だそうです。
陸上自衛隊で過酷な戦闘を想定し訓練する部隊にいた方の説明で凄く説得力があります。


真ん中の三角になっているのが”みたま”で、納骨棚があるそうです。
1万名以上が戦死し、、まだ2600体の不明者の遺骨が見つかっていません。

ペリリュー島の戦いを指揮した中川大佐の遺骨もまだペリリューにあるそうで
中川大佐の婦人は、まだ見つかっていない方が多くいるのに、先に日本に帰すわけにはいかないと
受け取りを拒否したそうです。


みたまの左側にある石は吉田茂元首相の名前が入っているそうです。



ペリリュー島戦車隊の墓
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順番が変わってしまうのですが、
先に戦車隊を紹介します。


弾薬庫跡、海軍司令部跡と見学した後
飛行場近くで戦車の残骸があります。

こちらは、日本陸軍九五式軽戦車の残骸です。


いま見ると、ラピュタに出てくる動かないロボット兵のような雰囲気です。

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腐食し茶色くなったボディと違って灰色のところは弾倉でしょうか?
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弾薬庫跡を活用し博物館で、展示してあった戦車隊隊員の写真

なんと、青森県出身者、しかも七戸・十和田・六戸の方です。
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青森県出身者が乗る戦車に『むつ』と名がつけられていたそうです。

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日本兵が多く死んだと考えても、あまり実感はありませんでしたが
青森県のしかも七戸・十和田・六戸出身の方が激戦で亡くなったと知ると
他人事じゃない感がしてきました。


見学者も皆さんモノ珍しそうに戦車を見ているようでしたが
ペリリュー島戦車隊は、米軍の対戦車兵器の猛射を受け大損害を受けました。

戦車17両の他、歩兵600名が上陸間もない米軍のいる飛行場東端に突入。
戦車に歩兵を跨乗させ、米軍に攻撃を加えたといいます。

この残骸の周りで、多くの日本兵が壮絶な死を遂げたのでしょう。

戦車隊の平均年齢は24歳と若い方が多かったようです。


こちらは、沖縄県出身者を慰霊する『沖縄の塔』
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制海権も制空権もない中
パラオ本島から宮崎15連隊がペリリュー島へ逆上陸を実施
アメリカ軍の攻撃で約1000名のうち約400名しか上陸出来なかった。


そんな中、これ以上の増援は必要ないことをパラオ本島に伝えなければならなかったが
パラオ本島との通信手段を失っていたため、『海中伝令』といって、人間が泳いで伝えることになった。

その距離は、約60㎞という距離
途中の島で休憩は出来るけれども、かなり過酷。

戦前からパラオに入植していて、泳ぎが達者かつパラオの地理の分かる沖縄県糸満市出身者が
この海中伝令として多く選ばれた

奈良少尉以下計17名のうち、パラオ本島に到着できたのは4名だったそうです。



ちょっと、長くなったので、前編はここまで、
次回後編をお楽しみに


①―解説―

『解説 ペリリュー島を訪れる前に』   


この悲劇が二度と繰り返されないことを願って

サンキュウボウヤです。


新婚旅行で、ペリリュー島に慰霊に行きたいと言ったら、妻に一度却下されたのですが
綺麗な海があるところだと説明したら、許可されました。

っという事で、日米の精鋭が激突し、たくさんの死傷者をだしたペリリュー島へ行くことが出来ました。


最初にペリリュー島での戦いを簡単に説明します。

1941年12月8日未明
日本海軍による真珠湾攻撃で始まった日米戦争。
(そのまえに日中戦争で、米国が中国を支援してた時点で戦争してたとも思えますが)

米国からの石油禁輸に対し、東南アジアのオランダ植民地を侵略し石油資源を手に入れようと
始めた戦いで、数か月で、フィリピン、東南アジアを占領。
パプアニューギニア・ソロモン諸島まで勢力を広めていきました。


日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊と決戦するために兵力を蓄えましたが
補給路を維持するという概念がなく遠くまで伸びた補給線を維持することが出来ませんでした。

そして、ガダルカナル島やパプアニューギニアを巡る戦いで、
多くの航空機や艦船を損失してしまった日本海軍は
決戦場としていた、マーシャル諸島のタラワ島、マキン島にアメリカ軍が現れても
十分な戦力を出すことは出来ず、玉砕を続けます。


<太平洋の島々を巡る戦い・期間と死傷者数>

ペリリュー島解説

ペリリュー島がなぜ激戦だったかというと。
上の図を見てもらうと分かる通り、兵力の割に長期間に渡って戦いが続けられた事にありました。

隣の島のアンガウル島もサイパン島やグアム島よりも長い日数戦いを続けています。


先のサイパン、グアムの戦いで日本海軍は壊滅して、艦船や航空機の支援を受けることがありません。
増援もないし、撤退も出来ない、そんな中、なぜ長期間に渡って日本軍は戦う事が出来たのでしょうか?


陣地構築を指揮を取った村井権治郎少将
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日本陸軍では、島の防衛にあたり洞窟陣地を構築し
上陸してくるアメリカ軍を島の中へ引き込んで戦う事を考えていました。

タラワ・クエゼリンでは陣地構築の余裕はなく、サイパン島・グアム島では
上陸地点に全力で火力を投入する水際で戦う構えを取ったために、艦船や航空機で
陣地や兵器を破壊されてしまい、すぐに玉砕してしまいました。

村井少将は、陣地構築のプロという事で、陸軍の方針どおりに洞窟陣地を作る事で
激しい艦船からの砲撃や航空機の爆撃に耐え兵力を温存する事が出来ました。


そして、バンザイ突撃のイメージが強い日本軍ですが
自殺的な突撃による玉砕を禁止し、持久を徹底されていたのも
戦いが長期間に渡った要因と言われています。





ヘリコプター搭載型護衛艦『くらま』見てきました


人生の喜びをわかちあう
サンキュウボウヤです

海上自衛隊大湊基地に『くらま』を見に行ってきました。
2017年に就航予定の『かが』と入れ替わりで退役するそうです。

1981年に就航し
35年の艦齢
船体もボコボコw

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73式54口径5インチ単装速射砲が2門
砲塔内には、3名入るとか
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聞き間違いかな、ネットで調べると4名入ることになっておる。


アスロック発射装置の後ろ
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艦橋についてる、丸い風呂桶みたいなのは、
ヘリコプターとデータリンクするための装置なんだって
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ヘリコプターを離発着を管制するとこの入口
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歴史を感じる



気温0℃で風の吹く中
とても寒かったです。
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空母加賀を解説せよ② 戦艦建造競争とワシントン海軍軍縮条約

※あくまでサンキュウボウヤの考えであって
これが事実とは限りません。特に解説や例えが、おかしなことになっている場合があります



前回の『八八艦隊で計画された”戦艦”加賀』で
解説させたいただいたとおり、八八艦隊の1隻として計画された加賀

この八八艦隊の戦艦を建造するには
国家予算のほとんどを使い果たすという
というとても無謀な計画だった。

なぜ、こんな計画が立ち上がったのだろうか



1904年2月から1905年9月に起きた
日露戦争で、疲弊していた日本

でも、1914年7月から1918年11月に起きた
第一次世界大戦で、国土や経済基盤を脅かされる事のなかった日本は
戦争による特需で、経済が豊かになった。



しかし、同じく経済が豊かになった国がもうひとつ
『アメリカ合衆国』

アメリカが自国の植民地を守るためと称して
考えた軍艦建造計画『ダニエルズ・プラン』
それは、第一次世界大戦後、世界最大の海軍国イギリスの次を目指した建造計画だった。


日本と、アメリカ 両国が幅を利かせてきたんですね。
そして、お互いを敵視するようになった。

もう、この時点で日米衝突が始まっていたんですね。


日・米・英・仏・独・伊・ソの勢力図
海軍勢力図

世界のほとんどは英仏の植民地になっていた、この頃。
アメリカは中国の権益を狙うようになりました。

中国進出のためには海軍力ととても長い海上輸送路が必要です。

同じく中国の権益を狙っている日本が
アメリカの海上輸送路を脅かす可能性が
上の地図から判りますね。


また、アメリカは広大な太平洋と大西洋という
2つの大洋を守る必要があって

もし英国が敵対するような事があれば
太平洋と大西洋両面で事を構えるための
海軍力の増強が必要だった。

アメリカに対抗するように
太平洋では日本が。大西洋では英国が新規戦艦建造に着手
(英国はフランス・ドイツ・イタリア・ロシアという脅威も)


戦艦の性能向上により
多額の費用がかかるようになり
ただでさせ国家予算を食うのに
数を揃えようとすると、国家が破たんする


そんな建艦競争に歯止めをかけたのが
イギリスの働きかけで行われた軍縮会議

ワシントン海軍軍縮会議

詳細はwikipedia参照



お待たせいたしました。

っという事で、戦艦加賀は、もれなく
軍縮会議で決められた削減枠に当てはまりまして。

”廃棄”されることになりました。


この時、加賀と同時に建造中だった天城型巡洋戦艦、
「天城」と「赤城」は
その高速性能から空母に改装される事に決定・・・・


でも天城は、関東大震災で
船の背骨ともいえる竜骨が折れてしまい修復不能

廃棄されるのを待っていた加賀が
急きょ、空母に改装されることに



では、次回
第3回は、空母ってなにものだ?です
お楽しみに。
冬が来る。
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